入植前後を書き残された大森勝一郎氏の日記を紹介します。
屯田兵 大森勝一郎
明治26年5月1日  村長依田仙右エ門殿主催壮行会に招待され父ら共に臨席する。この会合は親戚、知己、公職者、村内有志にて盛大の送別を受ける。明日午後出発を発表。
5月2日   早朝より親戚、知己、有志其他に小宴を張り、其他一般見送人数百名という前例のない送別を謝し、午後2時頃離の悲しみ新天地への希望の交錯する感慨無量の裡に、家族一同郷里を出発。其時の感動は拙筆能く表現が出来ぬが、万歳万歳の声に送られ岩村田に向う、近親親戚、友人も同行し、その御芳志にて行程一里の岩田村に1泊、3、4名の知己、親友も同宿。見送人の内、土屋要作(親戚)小杉彦平、小泉与吉の両親(父の親友)同宿、翌朝御代田駅まで送らる。
5月3日   同宿の友人に手荷物等御世話になり御代田駅より乗車、確氷峠はアブト式機関車にて代え無事横川駅にて普通機関車となり一路東京上野駅に向け進行、夕刻上野駅に着き附近某旅館に宿泊翌日の市内見物を予定して休養一同元気。
5月5日  浅草公園、観音寺に詣で附近散策1日暮れる。
5月6日  先年居住の地往訪を予定していたが降雨の為取り止め休養。
5月7日  午前中夜来の雨続き、午後市街見物傍々旅行用品を調べる。
 5月8日  新橋停車場より乗車間もなく横浜駅下車。午前中徴募事務所に出頭届出者指示受け指定旅館に案内される。
 今日から旅費一切自弁に及ばず、明日午前10時より乗船に付ては仁科曹長の指示に従うこと。集合場所に遅参なきよう、尚余りの自由行動なきようなど、以上。
 集合者、長野県6、栃木2、群馬1、計9戸。
 5月9日  今日愈本州と別れる時が来た。午前10頃より汽船金沢丸(3,000屯)に乗船開始、正午頃全員の乗船終了、船中の昼食賄、幸い好天に恵まれ一同元気。各自発送の大荷物も全部巳に到着、午後は此の大荷物の積込を了へる。明朝出帆の由、本日は波も静かにて、全員中には海に初めてお目に懸かる者が小児共には約半数位との事、物珍しげな大人、子供で甲板は一杯、此夜航海の無事を祈りて寝につく。
 
上川道路開削記念碑
国道12号線空知川を渡って400m道路の左側(砂川市中)にある。
明治19年5月樺戸集治監典獄家村治孝、道庁属高畑利宣がここを起点として市来知(岩見沢)方面と忠別太(旭川)方面へ囚人2隊に分けて同時に着工した。忠別太へは6月23日、市来知へは8月3日開通、
延長22里14町 工費3,784
5月10日 

 仁科曹長の人員点検あり、未明出航。金華山沖通過の頃から船体動揺も少々激しく、自分等も何となく気分の勝れぬ者も出来、ぼつぼつバケツの厄介になる人もある始末、父と拙者は幸に家族の世話に事欠かさずして済んだ。

5月11日 

 昨年来の時化相々治まり、宮城県荻の浜寄港、同県地方応募者30数戸収容乗船せしむ。船内頗る雑沓、相互に言葉が良く通じないので可笑(おかし)かった。老人等の話は全然不明瞭で閉口。

5月12日 

 夕方小樽入港。上陸は明朝とのことで一同がっかり。開港海上からの眺めも予想以外立派で明朝の上陸を楽しみに寝床に入る。 5月13日 早朝から各県別人員点呼、何れも元気恢復して新天地に第一歩を印し、指定の宿舎色内町キト(きと旅館に旅装を解く、午後石狩国上川郡当麻村にある兵屋番地の抽籤行われ、第6中隊3区361番地と決定

5月14日  全員健康診断の後休養、市街散歩。
   
南空知太駅碑の位置
碑は、上り空知川鉄道橋を渡って約100m線路の左約10mにあり
高さ90cmの所にある
5月15日 

 全員40余家族手宿駅より15屯積台車に分乗目的地に向け発車。間もなく海岸線張碓、銭函駅附近各漁場には男女数十人帥の処理最中にて、各漁場山と積まれた錬のその量に驚く。札幌駅数分の停車、市街の一端を知るのみで皆残念がる。岩見沢附近駅にて同県出身潮田某砲兵隊に、小出某工兵隊に各兵村に向ふ。再会を期し互に成功を祈って下車を見送る。空知平野は地図の上だけ、実は樹林地帯多く展望もならず。終点空知太仮停車場に下車、徒歩滝川番外地旅舎に宿泊。当地は23年入地開拓の兵村丈に開墾も大分捗って居るが、畑地かと認められる処は末だ宅地の一部分よりなく開拓事業の困難を想ひ吾等にも又同様の事態が待ちつつあるかと思へば余り自信も持てず心配ながら寝床に入る

5月16日 

 此のロより老助炭弱者等は特に荷馬車送りとなり、母と諒は其内に加はる。今後行程は18里余とか、吾等は徒歩音江法華(おとえぼっけ)に向け三々伍々泥淳の路を辿り、車馬の連中と前後して進行。夕闇迫り同地駅逓所着き宿泊、此行程7里との事、途中格別の珍しきものもなく樹木の間に初めて鶯の声を聞いた時矢張りこんな処にもうぐいすがいるかと唯々慰めであったが疲労は格別。

 
碑 文 表
南空知太駅跡 明治25年2月砂川南空知太間に鉄道が開通してこの地にあった南空知太駅は
最果ての駅として繁栄しましたが明治31年旭川駅まで鉄道開通により廃止
昭和41年10月31日 砂川市教育委員会
5月17日 

今朝も亦早々霜を踏んで忠別太目差して出発。三国峠にかかり見渡す限り殆んど一面の樹林地、人家と思ばれるもの更になく遠く石狩の流れが処々に散見、幸に熊にも出合はず森林地帯の悪路を辿り漸く忠別大駅逓所に到着。当地宿泊の由にて割合陽も未だ高く小休出して附近散策。谷間には未だ残雪点々。石狩の奔流は巨岩累積の問を走る。岸辺にアイヌ古老の2、3人八ッ目鰹の釣捕りするなど見物権舎、此の地に宿泊の予定なく続いて行進の命に一同がっかり、駅適所に宿泊通知なき由暗め忠別大に急行。上川盆地の関門として知られる此の地風景の眺めもそこそこに台場カ原にかかって小休止、目的の上川原野の一端を知り地域の広大には予想外で驚く。此地方に数年前人地の和人鈴木亀太郎老人が一番乗り毛皮類の仲買などにて生計存命との話あり。夕暮、忠別駅逓所に入り宿泊、明日行程5里余と聞く。兎も角、当麻兵村に向って最後の日程。

5月18日 

愈今日は目的地当麻村目指して一同勇んで出発。永山村に向ふ国道(当時北見道路)と云ふは其の直線3里以上有る由に驚く。上川盆地とはこれ程の広大とも想像せず、殊に概して草原地帯多く地勢も村名に反して小山もない平担地、開墾も割合簡単に捗るよう考へられた。先年大地の滝川兵村より開拓事業は却って進捗して居る由。 屯田兵第三大隊本部所在地永山兵村(24年大地)通過、各兵屋には国旗を揚げ処々に湯茶の接侍所を設け、吾等一行を迎へる。此所にて昼食を済し、又直線を行進、1里余にて更に別れて当麻村に向ふ。 遂に現地到着、中隊本部に到着を届け、諸手続を丁へ指示を侍つこと久し。諸注意訓示あって後、各方面毎に先着兵士の案内にて三々伍々同行者に別れ定められた吾が361番地の新兵屋に入る。一同無事到達に安堵、父と自分は旅装を解く暇もなく宿営の必要品外夕食等受領のため配絵所に走り入地第1日目はなかなか忙しい。兎に角郷里出発以来初めての我が家に一夜を過ごすことが出来る筈で寝床に入るも尚深更まで仮眠のまま遂に夜は明ける。

   
第三美英舎(空知太駅逓)明治22年 建滝川市高畑利宜の孫良助蔵
5月19日  爾後の方針も定め兼ね唯茫然、朝食の後宅地全部を調査壱町五反歩総てが湿地帯立木も殆んど一面、経五寸乃至尺五寸の樹林地稀には弐尺以上のものも散在して終日尚暗きが如<にて此の密林が果して耕地に成功するか、況して労働の経験少き吾家族にて故郷出発前の意気も消沈顔色なし。昼食の後又給与品受領に本部出頭、家員外糧食用白米四斗五升入り配給されこの運搬には父と2入の差持(さしもち)ながら終生忘れ難い苫業であった。以後毎月1回の扶肋木給与の時は泣かれぬ苦労であった。
   
忠別太駅逓第一美英舎(修理復元)
 
 糧食1日分給与額 玄 米 塩 菜 料
大  人 15歳以上 7合5勺 壱銭5厘
中  人 7歳以上  5合 壱銭
小  人 6歳まで 3合 5厘
5月20日   先着近隣班内の挨拶廻り、吾が井戸組には佐賀3、山口1、広島1、徳島1、長野1の各県人7戸の集団で、互に親密協力して開拓の任を果すことを約して戻る。各々お国言葉丸出しで意味の解し兼ねる場合もあったが、矢張り日本人同志で大体には不都合もなく会話した。此の不便も其の内にはお互の話合に差支なく出来ると思う。
 此度自分等の大地で全村完了との事。明日から家屋の周囲、入口道路整備など予定て夕食後は家内相談会、事業手配等々
 
当斑は第3区第11給黄斑と公称、17戸の斑
 
 
 
 
 屯田大隊本部米倉庫に於いて扶助米を分配


参考資料 当麻屯田百年史(当麻屯田会著)・当麻町史
協   力  当麻屯田会有志
製   作 当麻屯田会
2007.04〜2009.03 

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